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エアロスミスの生誕から現在まで1

エアロスミスの生誕から現在まで1


今年レコード・デビュー50周年を迎えたエア ロスミス、彼らほど稀有なバンドは他にないと 言っていいだろう。一度も解散することなく、メ ンバーの一時的な離脱はあったものの、今でも デビュー時と同じ布陣で活動しており(もっと言 うなら誰も死ぬことなく)、しかもロック・シーン の頂点に君臨し続けているのだから。 だが、栄光の中をただ歩んできただけではな い。この50年は、様々な苦難やトラブルや確執 を乗り越えてきた歴史であり、彼らはまさにサヴ ァイヴァー中のサヴァイヴァーでもあるのだ。
 
輝かしきラインナップの集結 
 メンバーは、スティーヴン・タイラー(vo)、ジ ヨー・ペリー(g)、ブラッド・ウィットフォード (g)、トム・ハミルトン(b)、ジョーイ・クレイマ -(dr)。ここではリード・ギタリストであり、ス ティーヴン・タレコード・デビュー50周年を迎えたエア ロスミス、彼らほど稀有なバンドは他にないと 言っていいだろう。一度も解散することなく、メ ンバーの一時的な離脱はあったイラーと共にバンドの二枚看板を 成すジョー・ペリーを中心にしながら、バンドの ヒストリーを辿ってみよう。 ジョーはアメリカ・マサチューセッツ州ローレ ンスで1950年9月10日に生まれ、同州ホープデ イルで育った。彼の幼い頃の夢は海洋生物学者 になることだったが、隣の家に住んでいた子供 たちが奏でるエレクトリック・ギターのサウンド に心を奪われ、バディ・ホリーやビル・ヘイリー& ヒズ・コメッツ、チャック・ベリーなどのロックン ロールを聴き始める。やがて念願叶ってギターを 買ってもらうが、教則レコードに従って練習をし たため、本来左利きだった彼は自然と右利きで ギターを習得することになった。 1960年代に入ると、イギリスのロックがアメリカを席巻する“ブリティッシュ・インヴェイジョ ン(イギリスの侵略)”が始まる。ジョーもザ・ビ ートルズやザ・ローリング・ストーンズに夢中にな り、さらにはエリック・クラプトンがギタリストを 務めていたジョン・メイオール&ザ・ブルースブ レイカーズ、ジェフ・ベック在籍時のヤードバー ズなどに衝撃を受けた。 ジョーは私立の寄宿制高校に進学し、夏休み にはニューハンプシャー州サナピーで、バーガ ー・ショップのアルバイトをして過ごした。その 時に客の紹介で、近隣に住むトム・ハミルトンと 出会った。意気投合した彼らはドラマーを加えて バンドを結成。トムはギタリストだったが、ジョ 一の方が上手かったためベースに転向した。サ ナピーで夏限定での活動しかできなかったこの バンドは、“ザ・ジャム・バンド”と呼ばれた。 また、サナピーに親戚か知り合いがいたという スティーヴン・タイラー(本名スティーヴン・ヴィ クター・タラリコ)も、ニューヨークから毎年夏に バンドを引き連れこの地にてライヴを行なってい た。当時の彼はドラム&ヴォーカルだ。ジョーは スティーヴンについて、「演奏は凄いが、あんな 自信満々でクレイジーなヤツとは住む世界が違 う」と思っていたという。 スティーヴンは1948年3月26日、ニューヨー ク州ニューヨークシティ生まれで、ジョーより2 つ歳上だ。マリファナ使用のため高校卒業直前 に退学処分を受け、その後エンターテイメント/ 芸術分野で働く若者向けのフリー・スクールを卒 業。ストランジュールというバンドでシングルを 出したり、バロック・ポップと形容されたバンド: レフト・バンクのレコーディングにバック・ヴォー カルで参加したりと、様々な活動を経験していた。 18歳になったジョーは寄宿制高校を中退して おり、工員として働きながらバンド活動を始めて いる。そして次の夏にはサナピーに舞い戻って、 ザ・ジャム・バンドを再始動させた。スティーヴ ンはその彼らのライヴを観て、生々しいパワーに 衝撃を受けた。特にジョーのプレイには心を奪わ れたという。 ザ・ジャム・バンドを気に入ったスティーヴン は、ジェフ・ベック・グループの新ヴォーカリスト に応募するためのデモ音源のバック演奏を彼ら に依頼。こうしてスティーヴンとジョーとトムは、 初めて一緒に音を出すことになった。後にエアロ スミスのレパートリーとなる、ヤードバーズの 「Train Kept A Rollin'」も演奏されたという。そ れまでスティーヴンのことを嫌なヤツと思ってい たジョーも、彼の実力に大きな感銘を受け、素晴 らしい一体感を覚えて親しい間柄となった。 その後、ジョーより1歳下のトムが高校を卒業 するのを待って、ジョーとトムはより本格的な音 楽活動をするため共にボストンへ移住する。ジョ ーが20歳になる1970年9月のことだ。そしてそ れは、ジミ・ヘンドリックスが亡くなった月でもあ った。 ドラマーを探している彼らに友達が紹介してく れたのが、ニューヨーク出身で、ボストンにある バークリー音楽大学に通っている学生ジョーイ・ クレイマーだ。そしてその後サナビーにしばらく 戻ったジョーは、スティーヴンと再会を果たし、 バンドに誘う。快諾したスティーヴンはボストン に引っ越し、4人は同じアパートで暮らし始めた。 またスティーヴンの紹介で、彼の幼馴染であるレ イモンド・タバーノというギタリストもバンドに加えることになった。バンド名はジョーイの発案に より、"Aerosmith=エアロスミス”と決まった。 “aero”には“空中・航空”などの意味があり、 "smith”は古英語で“職人”を意味するので、“空 を駆ける職人”というような意味になる造語だ。 そしてこれはかつて、複葉機から飛び降りるサー カス団員のイラストがジャケットに描かれたハリ ―・ニルソンのアルバム『AERIAL BALLET」 (1968年)を聴いた時に、ジョーイの頭に浮かん だ言葉だった。 翌1971年にはレイモンドに代わって、バーク リー音楽大学に通うブラッド・ウィットフォードが 加入。彼はスティーヴンの昔のバンドのギタリス トの友人で、ジョーとはその年の夏にサナピーで 出会っていた。こうして、一時的な変遷はあった ものの今も変わらない、輝かしいエアロスミスの ラインナップがそろった。 彼らは数多くのライヴをこなしてどんどん実力 をつけ、地元では名の知られるバンドになってい った。そしてさらなる発展を目指して、1972年 にはニューヨークでショウケース・ライヴを行な う。それには彼らが契約を結んだデヴィッド・ク レブスとスティーヴ・レバーの働きもあった。こ の2人はスティーヴンやジョーが気に入ってい た、ニューヨーク・ドールズのマネージャーでも あり、ニューヨーク・ドールズのメンバーもエア ロのライヴを観に訪れたという。
 
 

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